匂いの記録・再生を実現するためには、対象臭のレシピを精度良く決定する必要がある。 しかし従来用いていた水晶振動子センサでは、成分数が多い場合多重共線性の問題があった。 そこで、対象臭のレシピ測定に質量分析器を用いて行う方法を検討した。 質量分析器は、複数成分のガスに対してすぐれた選択性および線形性が期待できるため、比較的容易にレシピ決定を行える可能性がある。
質量分析器とは

図1. 質量分析器の原理図
ここで、本研究で用いた質量分析器について説明する。
質量分析器の原理について、図1に示すように、まず試料を導入しイオン化室で電子流を当てることによりイオン化する。 次にここの四重極電極には電圧がかかっており、電圧の周波数を変化させることによりある特定のm/z値を持つイオンだけが検出器に到達できる。
これを利用して、質量数の小さいイオンから順番に検出器に到達させる。

図2. 質量分析器の出力結果(trans-2-hexenyl acetateの場合)
測定結果は図2のようになり横軸にはm/z、縦軸には検出器出力が示している。 各m/zのピークを1つのセンサ出力とみなしてマススペクトルをパターン認識することにより匂いの識別、濃度定量を行うことが出来る。 試料の分子量を示す分子イオンピークの他に、イオン化の際に起きる開裂によりフラグメントイオンが発生する。 これにより、応答パターンが多様化する。
匂いレシピの推定
表1に示す10種類のシトラス系サンプルを用いて、匂いの記録実験を行った。 2〜5種類のシトラス系サンプルを混合したものを用意し、その混合サンプルの混合比を匂いレシピとして推定した。 匂いレシピの推定方法には非負拘束付き最小二乗法を用い、マススペクトルはm/z=60〜216の間にある74種類を使用し、各マススペクトルベクトルのノルムが1になるように重み係数を掛けた。
表1. 10種類のシトラス系サンプル


図3. 非負拘束付き最小二乗法
2混合サンプルの推定レシピの結果を表2に、4,5混合サンプルの推定レシピの結果を表3に示す。 2混合サンプルA〜Dにおいて、平均で数%の誤差でレシピを推定できた。 4混合サンプルBについては、Orange bitterとOrange sweetで誤差が大きくなっているが、この2つのサンプルのマススペクトルが非常に近いためと思われる。 また、この2つのサンプルは共通成分が多く、匂い自体も似通っている。 それ以外の4,5混合サンプルについては、数%の誤差でレシピを推定できた。
表2. 2混合サンプルの推定レシピ
(青色は試料に実際に含まれている要素)

表3. 4,5混合サンプルの推定レシピ
(青色は試料に実際に含まれている要素)

大規模データを用いたレシピ推定シミュレーション
次に要素臭に1万物質を用いてシミュレーションを行った。対象臭をりんご臭にし、マススペクトルデータベースを用いて構成した。 りんごレシピを表4に示す。
表4. りんごレシピ

1万の要素臭をそのまま非負拘束付き最小二乗法に適用しても十分な精度でレシピを得ることはできない。 そこで1万の要素臭から適切に要素臭を選択する方法を考案し、計算を行った。重み付けは行っていない。結果を表5に示す。
要素臭の選択を行う前は十分なレシピ推定精度が得られていないが、適切な選択を行った後に十分な精度で推定することができた。
表5. りんごレシピ推定
次に対象臭に1%、3%、5%のガウスノイズを加えた場合も検討した。
雑音が多くなると幾何異性体など非常にマススペクトルパターンが似ているものが含まれてくるが、推定レシピから合成したマススペクトルパターンは対象臭に近いものが得られた。
大規模データを用いた匂いの汎用的な要素臭シミュレーション
約1万の要素臭の中から、色彩における原色のような役割を果たす汎用的な要素臭を、マススペクトルを利用したシミュレーションで探索する。探索シミュレーションを行うためにNMF(Non-Negative Matrix Factorization)法を利用する。NMF法の具体的な計算内容を図4に示す。大規模なデータ(データ行列V)を少数のデータ(基底行列)と係数行列との積で近似的に表現することができる。基底行列と係数行列に関する更新則を繰り返すことで近似の精度が向上する。

図4 NMF法
NMF法は大規模なデータから少数のエッセンス(基底行列)を抽出する計算法だと考えることができる。探索シミュレーションから実際の調合に使用できる要素臭の作成までの流れを図5に示す。マススペクトルデータに対してNMF法を行うことで、約1万の要素臭マススペクトルから汎用的な役割を果たす要素臭のマススペクトルを抽出することができる。しかし、NMF法で抽出した少数の基底ベクトルに対応する要素臭を実際の薬品から調合する事を考えた場合、基底ベクトルに対応したレシピが存在しないために直接調合することができない。そのため、抽出した基底ベクトルを目標に、大規模データベースに非負拘束付き最小二乗法を用いて近似基底ベクトルのレシピを得る。この近似基底ベクトルこそが汎用的な要素臭として実際に調合に使用することができるものである。

実際に用意できる148個の要素臭を、質量分析器を用いてマススペクトルを測定しデータベースとした。このデータベースから上記の手順の通りに近似基底を探索する。この基底を用いて元の148個のデータ及びフルーツフレーバー(多成分臭)を調合する場合に、最適な基底の数について検討した結果、その数は16であるとシミュレーションから結果を得た。現在、実験により検討中である。